功夫と時間

なんだかこの歳になって他人の「功夫」が観えるようになってきた気がする。武術に限らず、いろんな芸事に関して、練れてるか練れてないかが「密度の濃淡」として感じられる。

よく、「インプットとアウトプットが大事」というけど、入ったものをそのまま出してるような人は、いくらインプットとアウトプットを繰り返しても薄いままで濃くならない。

喩えるなら、たくさん水を飲んでおしっこをたくさんしてるようなものだと思う。アウトプットは排泄物ではなく、食べたものが血肉になって、その血肉から出されるものこそが、アウトプットなのだと考えている。

いくら良い肥料を大量に与えても明日実がなるわけではないし、今日バカ食いしても明日数十キロ太るわけでもない。一時的なものでない本当の変化は時間というファクターが必ず必要となる。だから、「本当の変化」は必ず時間がかかる。

太極拳の套路は「ゆっくり」だ。ゆっくりという事は時間がかかるという事。あっちからこっちへ、普通なら簡単にあっさり速く移動できる。でも、太極拳は時間をかける。

違う。これも「時間がかかる」のだ。

変化の機を与え、変化する環境を維持するのは「作為」だ。だけど、その結果の時系列変化は「自然」。植物の種をまき、水をやり、肥料をあたえながら見守り、実が生るのを待つのと似ている。

「成すべきことを成し続けて機が熟すのを待つと、成る。」

功が成るのは、木の実が生るのと一緒。太極拳はそのプロセスを体現してるのだと思っている。